意味ってどういう概念だったっけ。因果を規定するための言葉が細分化しすぎて、もう誰も物語原型が持っていた力を思い出せない。わけもなく死んでみたり殺してみたりするのも、別に不思議じゃなかろう、とぼやくのもまたひとつの因果の規定。
等身大の物語、なんてものを消費する人間が現れたのはいったいいつ頃のことだったのだろう。物語は世界を表すべきものではなかったのか。だとするなら、等身大、などという欺瞞に満ちた物語を喜んで摂取する行為はなにやら気味の悪いものに思えてくる。
主人公気取りなのである。自分でも主人公になれそうな物語を設定しては、そこに入り浸って安心感を得るのである。他人に否定されねばわからないのか? お前は何の物語の主人公でもありゃしない、と。住人ですらない、と。そんなものに相応しくない、と。
彼らに自覚はないが、その胸を掻き毟るほどの苦しみさえ借り物である。その涙も借り物である。その笑顔も借り物である。反吐が出そうなほど大量の物語とやらによって形作られる、泥の城めいた塊である。借り物を滅多やたらにくっつけあうものだから、その形状は狂気じみている。
言葉による思考がすべてを蝕む。言葉の奔流をうまく馴致し、非言語の世界に匹敵するほどに美しい空間を形成するよう仕向けるなど、この世の最高の詩人たちによってのみ可能な芸当ではないか。ならば我ら凡人は奔流に流され溺れる不具者である。あるいは既に溺死体か。
思い出すら言葉に侵食されて、何か見たこともないようなねじくれた形に変わっていくのはどういうことなのか。瞬間のあの確信はなんだったのか。それも言葉によって規定された感覚だったのか。救いがない。
ああ、そもそも思考なんてのは既に終わってしまった歴史を辿る言語的解釈装置にすぎなかった。
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