あえて馬鹿を装う。いや、馬鹿、というと少し違うだろうか。あえて無知無能を装う、の方がより正確かもしれない。
指示内容が真の意図と合致せぬ言葉を量産することで、人間同士が傷つけあうことを回避できるなどと考えたのは、いったい誰だというのか。行過ぎた臆病を捨てたなら、そのような虚妄と決別することは可能なのに。
しかし彼らは相手の臆病を予測した上で、それに対処する労力を惜しまぬのだ。彼らが投影によって相手を推し量っているというのならば、なべて彼らは臆病だと結論づけて差し支えなかろう。だがその臆病を予測されることの苦痛はいかなる理由によって?
無知無能を装う者は臆病および臆病の予測の存在を否定し、無効化したつもりでいる。だがそれは実際のところ、無知無能の装いを看破された上で内奥の臆病を予測される二重の苦痛しか残さないのだと心得よ。
しかし、そのような二重の苦痛といえども、有能と自らの優位を装った上で、それを看破され、否定されることの苦痛に比べればましなのだった。
ならばいっそ、無知無能の装いを看破できぬほどの無知無能を装い、互いに臆病を否定しあう最底最悪のコミュニケーションを蔓延させるに越したことはないとも思えてくる。装わなくとも無能な人間からすれば、少なくともそれに勝る望みなどないのである。
mail:gerimo@hotmail.com