ようやくいい感じに、ノスタルジーばかり引きずる癖から卒業できそうな気がする。またひとつ信仰の対象の候補を失うことになるんだな、俺は。
非宗教者の人生を、信仰の対象として期待していたものを見失い続けていく過程だとするのなら、そんな人生が幸福になりうるとはとうてい考えられない。ならば、はじめから存在せぬものを見ているつもりでいることの何が悪かろう。
でもまあ、意識的な判断どおりに自分の心を導ける、なんて考えは大間違いなので、それは詮無い議論なのだ。意識なんて厄介な代物がなければ万事解決なんだけどねえ。意識って定義するなら「世界を『解釈』するための壊れた道具」ですよね、きっと。むしろ『解釈』って行為自体が既に壊れてるのだろうが。
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