我々が泣いたり喚いたり悶えたり苦しんだり、それとも楽しんだり笑ったりするようなことってのは、過剰な思い入れの産物に過ぎない。
と断定したところで、決して誰にも間違いだとは言えないだろう。そもそも「過剰な思い入れ」とか「過ぎない」あたりの言葉を解釈するときの視点の取り方で、いかようにもなるわけで。別に思い入れの産物に過ぎないからって、本人にとって大切なことに変わりはないんである。
それで、結局のところ問題なのは、「過剰な思い入れ」ってのがどっかの誰かとどれだけ一致するか、ってところだなあ。何に過剰な思い入れを注ぐかというのは、文化と、遺伝的形質と、それまで過ごしてきた環境で決定されるんだけど、同じ文化のもと、同じ情報社会のもとで暮らすんなら、やっぱり物を言うのは遺伝的形質ですかねえ。
ただし、ある特定のものに過剰な思い入れを持ったまましばらく時を過ごすと、何というか「そっち方面」への思い入れがより強くなるような、正のフィードバックループが構築されてしまう。されないこともあるだろうが、そういう傾向が存在するのは確かだという気がする。
ひとりで彼岸へ逝っちゃってしまう可能性は常にあるわけだ。バランスよく他者との相互作用を試みることで回避するしかないんだろう、たぶん。
文化で規定されるべき過剰な思い入れの許容範囲を逸脱することは、なんだか今の世の中ではやたらと容易に起き得るように見える。
情報社会というかネット社会において、ミームの選択的受け入れという能力を我々は必要としたのだけど、それが自分の思い入れのある方面のミーム以外を遮断する能力としてのみ働いているんじゃなかろうか、という風な。
思い入れとかいう曖昧な言い方じゃなくて何かこうパキッとした内容で論じられるんじゃないかという感触もあるけど、この辺は今の眠い頭ではうまいこと考えがまとめられないので、また今後の課題ということに。
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