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もりげレビュー


  04年5月前半雑記 Date: 2004-05-01 (Sat) 

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雑記

5月1日
 さて。月も改まったことだし、ゲーム話ばっかりしてるわけにもいかねーと思うからさ――ってもほかに書くことないさびしい人生。

 ああ、ピアノの低音の太い弦を張るとき、間違えて通すべき穴に通さないままピンに巻きつけてしまった話はしたっけ? してないか。
 それに気づいた瞬間、ぼくは全身がかぁっと熱くなるような感覚に襲われたよ。とにかくなんとかしなきゃ、って焦りながら、「くそっくそっくそぉっくそぉぉっ」とか呟きながら、くるくる巻いた弦の先っぽを必死で伸ばし直して無理やり通しましたんですよ。

 通ったときの安堵は、一生のうち何度味わえるかわからないくらい大きいものだったさ。一本約5000円もするし、わざわざメーカーに注文しないと来ないような代物だから。無駄になったら泣く。

・・・
 美佐枝さんルートを見て、麻枝氏がCLANNADで目指すものがよりはっきり見えたもんだから、仕掛け部分をちゃんと見てから評価したいところなのです。てか、春原兄妹ルートと杏ルートを終わらせたんですが、双方すげえ古臭い青春ドラマじゃないですか。俺にどんな感想を言えというのか。ぜんぜん悪くはないんだけど。春原妹は主人公のこともおにいちゃんと呼んでくれるしな。
 えー、杏ルートはまともにどこまでも純粋に恋愛モノ。あー、椋のキャラ造形はとってもリアルですね。個人的に冷静に見られないくらいのリアルさ。

5月2日
 NHKってのは、「ゴールデンウィーク」って言葉を発してはならないことになってるんですかね? 某ラジオ番組でアナウンサーが「ゴールデン……いや大型連休の」とか言い直してましたし。別にどっかの企業の宣伝文句とかではないと思うのですが、どうしてなのでしょうか。

・・・
 CLANNAD。やっと……やっと隠しシナリオに到達……。おそらくここからが本番だな、むしろ。

・智代シナリオの結論はこれで良かったのか?
・勝平シナリオには予想を裏切られた。ちょっと悔しい。

5月3日
 CLANNADおわったー。ここまでやるのか……。ある意味とんでもねーゲームであることは間違いない。ある意味、ね。ぼくが期待してたベクトルとは違うってことだけは言っておきます。ただ、買おうか迷ってるような人はとりあえずやってみて損はないかと。半端じゃない思い入れが伝わってくる、重たすぎるくらいのシナリオ。それでも、重苦しいとか鬱入ってるとかでは決してないので。

 しかし、麻枝准ってライターは、リアリティをものすごい勢いで投げ捨ててまで絵になる光景を演出しようとしますね。誰でもこういう突っ込みは入れるとおもう。

「おまえら、もう少し病院ってものを活用してください、頼むから……」

 下手するとそれだけで話についていけなくなるのでこういうのは損な癖だと思うんだけど。まして今回のように現実を見据えるような方向性を目指すのならば。
 とか言いつつ肺がおかしくなるくらい泣かされたんだけどね。こんなに突っ込みどころ多いシナリオでなんで泣けるかって、麻枝氏って自分で泣きながらシナリオ書いてるのがありありとわかるから(本当に涙流しながら書いてるかは別として)。作者にそのまま共感できるから。

 ああ、風子シナリオだけやって貶してた自分を殴りたいぞ。ちなみに風子、あの後いろいろと見てきてキャラとしてはかなり好きになりました。
 最後に、確かに思いは受け取りました。オーラスのエンディング曲は個人的には神レベル。前半のあのDQNぽさも全部あの後半が書きたかったからか。そう考えると納得はいかないこともない。ちょっとどうかと思う気持ちは変わらないんですが。

・・・
 以下ネタバレもあります(半分くらい電波解釈)

 しかし、ここであえてCLANNAD未完成説を唱えてみたい。いや、物語としては完結してるのだけど、バランスとして不自然な点が多すぎる。作品を貫いているはずの幻想世界編の扱いが、軽すぎるのだ。

 有紀寧というキャラがいる。彼女はもともと「資料室にこもって町のことを調べている」という設定だったはずだ。しかし、実際にシナリオ中で町のことについて彼女が語るのはクリア後のほんのいくつかの科白にすぎない。資料室が不良の溜まり場になってるだけ、というのはどう考えても後で設定を変更した結果としか思えない。

 また、涼元氏の不可思議な沈黙もある。いったい彼は本当にことみシナリオだけしか担当していなかったのか? だいたい、ことみシナリオにあった伏線(らしきことば)は、結局回収されなかった。

 幻想世界12での描写を見る限り、あの世界は超対称性粒子でできた「影の世界」であると考えられる。そして、幻想世界の意志によって集めることになった「光」は、学園編の分岐それぞれの先で手に入ることになっている。ということは、世界観の中には多元宇宙も含まれているということになる。超対称性粒子世界における意志は、どうやらすべての多元宇宙をまたいだ広がりを持っているらしい。そしておそらくは時間をも超えた広がりを。

 本来であれば、「影の世界」にある「ガラクタ」や「獣たち」の説明や、なぜ「影の世界」が「町の心」として働くのか、そしてまたその仕組みが歴史上どのように人々に記録されてきたのか、何よりなぜ主人公だけが「影の世界」にも心を存在させることができたのか、それらの謎の解決がなされるシナリオが用意されるはずだったのではないか。それが、たとえばそう、直幸の母に会うシーンで明かされるはずだったのではないか。

 それが、ことみシナリオで Theory of Everything に触れていた涼元氏の仕事であったのではないか、と思うわけですよ。ちなみに関係ないけどことみシナリオのラスト演出の曲名が"TOE"で、タイトルだけで泣けてきます。

 などと書いたのにはほかにも理由はある。今まで「麻枝氏の目指すものが見えてきた」と言ってきた。それは、つまりこの作品の仕掛けで、「MOON.」は除くにしても「ONE」から「AIR」までのすべての物語を説明できるようにしてしまおう、という意志が見えたということだった。それはクリア後の今でも間違っていないと思う。だが、それだけの覚悟があったのだと仮定すると、幻想世界編があれだけで終わってしまうのはどうも合点がいかない、ということ。

 さらにはっきり言うなら、個人的にはもっと幻想世界の景色を見たかったぞ、と。

5月6日
 毎週木曜日は朝6時台起床なので日中眠すぎですよ……。とかいってなに夜更かししてんだよ俺。

 あれだね。寝ないでいると頭がぐるぐるしてきて脳内を血流がどうどう言ってるかんじがして素敵だよね。

・・・
 ああうるせー信者だよ信者。前から言ってるじゃんか。

 でも、ぼくが麻枝信者というものになっていったのにはそれなりにわけがある……んだと思う。というわけでぼくが麻枝准という作家にどのように出会ったか、それを少しずつ書いてみようかと思う。

 彼がかかわった作品の中で、ぼくが最初に触れたのは"Kanon"だった(つづく……のか?)。

5月7日
 ゼミの途中で、先生(男・60くらい)が突然しば犬の写真を出して、「ぼくのアルターエゴのあみちゃん。かわいいでしょ」とか言い出して、みんなで大笑いした。とても心地よかった。

 帰りしな、夏のような日差しの中、修学旅行中らしい女子高生たちが談笑している声を通りすがりに耳にする。

「えー、コクんの? ほんとにー?」

 お幸せに。ぼくはどこにも行けないけれど、世界には楽しいことやわくわくすることに満ちているね。

・・・
 ほんとにあったきのうの続き。超ネタバレあります

 "Kanon"購入を決意したのは、DCへの移植で再度盛り上がってるころの話だった。ある雑誌への投稿レビューがきっかけとなった。泣ける、とかいう話は以前から聞いていたが、そのレビューは「泣きゲー」ということばをなかば蔑称のようにあてがわれている現状を嘆き、「この作品に、作者はもっと深い思いをこめているように思える」とする内容であったと思う。そこまで言う人がいるということに興味を覚えた。

 結局、そのレビューはどちらかというと的外れであって、"Kanon"は実際に泣かせに特化したゲームでしかなかったのだが、しかし私はそのレビューに後々感謝することになるのだった。

 ゲームを開始すると、パースの狂ったような女の子の顔が覗き込んできて、私は不安と戦いながら進むことを余儀なくされた。しかし、文章は概ね軽妙であり、何より背景CGの美麗さもあって雪の町の雰囲気はすばらしく、特徴あるキャラ絵にも割合とすぐに慣れてしまった。

 特記しておくべきことは、この段階で、回想シーンでかかる「冬の花火」という曲にたいへん心を動かされていたということだろう。なんということはない曲だったが、物寂しさと冷たさの中に、じんわりと胸の温まるような懐かしさを誘う、えもいわれぬ雰囲気を秘めているように感じられた。私はその曲に導かれるようにゲームを進め、名雪シナリオのエンディングにたどり着いた。


 あいた口がふさがらなかった。お粗末極まりない。こんな代物で泣く人間がいるわけがないと思った。私はこの段階で、購入したことを半ば後悔しかけていたのだ。


 しかし、買ってしまった以上、もう少しやってみないと勿体なくて泣きそうだった。そこで、次は夜の学校、新校舎の中で魔物と戦う少女、舞を攻略対象に選んで2回目のプレイを始めた。

 巨悪であるように描かれる生徒会にどこか居心地の悪い思い。近しい人が傷つく展開に(明らかに名雪シナリオとは質が違ったが)こればっかりか、と暗澹たる思いを抱えつつ進んでいった。しかし、家族のように団欒を繰り返すキャラたちを通して、それなりに物語に引き込まれていたのに違いない。だからこそ、その先にあの瞬間が待っていた。伏線もなにもほとんどなしに、唐突に真実が明かされた、あの生涯忘れないだろう瞬間が。


 記憶の中に米畑が広がっていた(麦畑と思っている人が多いようだが、あれは陸稲の田んぼだ)。主人公は、10年前その米畑で舞と遊んだ日々があったことを思い出す。そして、「魔物」の秘密が明かされる。

 米畑でふたり遊んだ日々。それにも終わりが来た。主人公はこの町に滞在していただけで、帰らねばならなかったのだ。いつまでもふたり遊んでいたかった舞は、主人公を引き止めるためにひとつの嘘をついた。

「魔物がくるよ」「魔物がきて、ふたりの遊び場を奪っていくよ」「だからふたりで戦おう」

 主人公は、「魔物なんていないよ」と言って、去ってゆく。

「ほんとうに魔物がくるんだよ。舞はひとりで戦ってるから。待ってるから」

 舞はその嘘にしがみつき、自らの持つ希望の力を解放した。魔物という形で……。


 そこで「残光」という曲がかかり、CGが10年の歳月を辿る。米畑がつぶされ、新校舎が建ち、そして変わらずその場所で魔物と戦う舞。遊び場なんてもうないのに。

 今まで、変なところはあるけれど、使命を自らに課し、いざというときには頼りになるような、強い女の子だと思っていた舞。不理解と嘲笑の中、戦い続けていた舞。しかし、その真実の姿は、ただ自分の嘘にしばられ続けただけの、ほかに何もない、滑稽極まりないものだったと主人公は気づく。そういうシーン。


 今でも覚えている。私はこの瞬間、「うそだろ……」と声に出してつぶやいたのだった。こんなばかげたお話はいまだかつて読んだことがなかった。アホか。10年間、「魔物がくるよ」という嘘を嘘と知りつつ信じて生きた少女? 魔物の正体は彼女の願い? くだらない。本当にくだらない。私は失笑しようとした。あるいは怒ろうとした。できなかった。なぜなら、私の目からはとめどなく涙があふれていたからだ。

5月8日
 父が、隣人の年配婦人と道で会って立ち話をしたという。父が挨拶すると、その人は

「あら、あなたは……もりげくん?」

 とのたまったという。

 大きくなりすぎだろ、俺。

 いくら光陰矢の如しといえども、そこまで速いと光陰というものはいったいどんな巨大な加速器を用いて放たれたんだろうかと思ってしまいます。さすがに……まだ中年に差し掛かりたい気分じゃない。

・・・
 ああもう、今月前半雑記はもうKeyに捧げることにします。興味ない人はごめんなさい。クラナドネタバレこちらとか読んでいると、いろいろと言いたい事が出てくる。幻想世界そのものについてのぼくの見方は3日に書いたとおり。

 で、作品構造としては、朋也視点で時系列を語るなら、

 坂の下の出会い→渚シナリオ→汐死亡→幻想世界→多世界を巡って光集め→トゥルーエンド

 となる。が、要するにここで重要なのは幻想世界の意志が多世界と時間軸をすべて包み込むように存在しているということと、光集めをする朋也の意識と多世界における各ルート(学園編の渚シナリオ以外を進めた場合)の朋也の意識は別に存在しているということ。いや、そういうとまずいか。「光集めをする朋也」は、各ルートの朋也の意識を包含しているわけだから。

 ともかく、プレイヤーに与えられた視点は「光集めをする朋也」の視点なのであって、「光集め人朋也-各ルートの別朋也」の関係性は、そのままゲームにおける「プレイヤー-主人公」の関係として再現されているわけ。そういう意味ではうまいな、と思う。

 で、時系列云々だけれども、これは幻想世界の意志が時空を超えた広がりを持っているためにあんまり意味をなさない。朋也の出会いのシーンでの科白やら渚の書く脚本やらは、すでに幻想世界のかすかな記憶によって影響されているわけで。だから幻想世界に汐の意識が「だんご大家族」とともに組み込まれたのは、こっち側世界の時空認識で考える限りは汐ルートのラストシーンで間違いないのだけど、幻想世界側から考えれば「いつから」とか「どのルートで」とかそんなことは意味すらなくす。なぜなら、あの世界は完全な世界だから。

 渚や汐の熱病についても、町の意志が弱体化、とかではなくて、ある固有宇宙のある時刻において町が変化すると、その固有宇宙のその時刻にこっち側世界に漏出していた町の意志の一部である渚(あるいは汐)が影響を受ける、というだけの話。

5月9日
 やたらとウィンカーの点滅がすばやい車を見かけた。通常の3倍くらい速かった。ぼくはその右折ウィンカーの点滅速度にせかされるように、赤信号なのに道を渡りそうになった。そいつの後続の車もなんだかあわてるように右折していったが、あれはきっとあの点滅を見て焦り、ついつい右折するはずのないところを右折してしまったのに違いない。あとで「くそー、あの車め! あんまりウィンカーの点滅が速いからついつい影響されちゃったじゃないか!」と地団駄を踏んだことだろう。迷惑千万である。あんな危険なウィンカーは製造中止にすべきだ。

・・・
 おとといの続き。
 あの私の感覚は、どうやらあまり人に理解されるものではないらしい。あそこは「はぁ?」とあっけにとられるべき場面であって、共感すべき場面ではないというのだ。しかし、実際問題、私は圧倒的に共感してしまった。その後、舞の自傷後の演出はさすがにやりすぎに感じられたが、その直後のクライマックス、希望の力と主人公の会話シーンは並々ならぬ美しさ。そして、これからつづられる物語を待つ買ったばかりのノートのページのように、真っ白に輝くエピローグ。半ば放心状態で見たスタッフロールは、エンディング曲の歌詞が、鼓膜すら通さず頭に叩き込まれるような異様な心理状態だった。

 私は、はじめて自分のツボというものに気づいたのだ。それは、よく見るのに決して思い出せなかった夢が、唐突に目の前に実際の景色として展開されたような。


 その次にクリアした真琴シナリオは、完成度は舞シナリオの遥か上で、何より細部の描写が巧み、エピローグの後味も舞シナリオに勝るとも劣らぬ清涼感であった。日本古来の異類婚姻譚をこういう形で再生したシナリオライターは只者ではない。この時点で私はこのゲームに心酔していた。

 残念ながらその先のプレイで得るものはほとんどなかった。佐祐理シナリオの子供視点の描き方に感心したくらいで。

 ゲームをコンプリートして、私の中で"Kanon"は舞と真琴と、「冬の花火」と「残光」からなる作品として捉えられていた。それらすべてが――私が激しく共鳴したものすべてが――麻枝氏の手によるものだということを知ったのは、ずいぶん後のことだった。しかし、この時点で私が彼の信奉者となることは決定されていたわけなのだ。

 そのほかの彼の作品はその後立て続けに遊んだ("MOON."はだいぶ後だったが)。どれもおかしいくらいに琴線に触れてくるイメージがどこか必ず含まれていた。そんなわけで……私はこうしているわけだ。今回CLANNADではずいぶんと一般志向なつくりをしていたけど、またいつかとんがったシナリオが読める日を、彼のアルバムが聴ける日を、楽しみにしているのでした。

 ただ、ひとつ付け加えておくと、彼のシナリオにはどうしても好きになれない部分もあるのだけど。それを帳消しにするほど共感する部分がある、ということ。あと歌は無条件に好き。麻枝好きとしての自己紹介を終わります。

5月10日
 友人の留学先では大雨が降って水が道にあふれ、夜の雷で学生寮が停電になって、大騒ぎをしたそうな。
 そんなメールを読んでいるだけでなんだか泣けてくるような心持になるんだけど、うらやましがってるんだかなんなんだかよくわからない。

 私としては珍しくモーツァルトなんかをやっている。メランコリー状態だと、モーツァルトの音楽の古楽器的な響きのためのタッチはしっくり身に染まない。そもそもそんなタッチが身についてないという話。

 けど、やっている曲自体は短調モノ、モーツァルトには珍しくメランコリーが表に出てて弾いてるときの気分は良い。ホ短調のヴァイオリンソナタ(K.304)、彼の母が死んだ直後に書かれた曲。第2楽章のメヌエットの美しさは言い知れないものがある。しかし……トリオ部分のやさしさがどうやっても理想に近づかないな……。

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 京都府警はキンタマウイルスにやられたので逆上したのか? 「そもそもこの世に罪が存在するのは人間がいるせいなのだ! 滅ぼしてしまえ」というあたりまで行き着いてしまいそうな勢いですね。

5月11日
要するに数の問題だ。気違いと言われないためには、同類をふやせばよいだろう。
――小林秀雄

 あるいは同類ばかりの園へと移住するのだな。……ことはそう単純じゃない。

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 初夏の夜の公園は、幸せがとげとげになって転がっている。

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 岡崎律子さんの訃報をきいてさすがに驚く。特にファンというわけでもなかったけど、歌声も曲もたくさん聴いたものです……ご冥福をお祈りいたします。

5月12日
 この年になってわざわざ学校でフランス語を習いはじめたというのも、選択としてどうかとは思うんだけども、ともかくフランス語をやっている。

 どんなことを学んだかと言うと、次のようなことだ。

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 フランス語というのは、形容詞も名詞の性やなんかに合わせて変化させるのだという。"petit"(プティ)という形容詞も、女性名詞につけると"petite"(プティットゥ)となる。

 だから、「妹」を正しく発音するなら、"petite soeur"(プティットゥ・スール)となるのだそうだ。

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 英語で言うところの"there is" "there are"に相当するフランス語は、"il y a"だそうだ。だから、「ここにカナがいる」と言いたいときは、

"Il y a Kana."(イリヤ・カナ)

 と言えばいいらしい。

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 フランス語はためになるなあ。

5月13日
 いくらなんでもうちの大学に法科大学院適正試験のお知らせ貼っても意味薄すぎると思うんですが……。

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 死を肯定的に捉える詩に多く曲を書いたシューベルトだけど、それは本当に彼にとって死が甘美なものとして存在したということを示すだろうか? そうは思えない。死が憧れとしてあったのは間違いないだろうが。

 死を肯定的に捉えることが生を肯定的に捉えることにつながるようなこともありうると思うが、逆に生を肯定的に捉えられずに死に憧れを抱かざるを得ないという状況もありるかと。シューベルトはこいつに近いんじゃないか?

 死を恐れない態度への嗜好も、つまり幸せを切望するのと同じような、痛々しい祈りでしかなかったのではないか。そんなことを思ったりする。

・・・
 オタク自ら父になれ――ってすごい名フレーズだと思う。おもしろすぎ。笑いが止まらない。

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