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もりげレビュー


  03年10月前半雑記 Date: 2003-10-01 (Wed) 

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雑記

10月1日
 10月1日では遅すぎる。と、何が遅すぎるのかも良くわからないまま何度も呟いた、そんな日。

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 いいなあ、猫は寝てりゃ幸せなんだから。……俺も寝てりゃ幸せ、なような気もするけど。

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 いえ、自分の周囲の状況を考え併せるに、到底その統計が真実であるとは思えない、と述べたに過ぎないのであって、私自身を含め、個人的な事実についてはひとことも触れておりませんゆえ。

10月2日
 奇跡キター!!

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 発表会場でいろいろと思ったことがあるのですが、あした正念場なのでまたの機会に。

10月3日
 原稿用紙の升目をエンピツで埋めるような作業は一体何年ぶりだろう、というくらいの気分でした。

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 きのうのはなし。
 なにしろさっぱり自信なんてなかったわけで、自分の番号を見たときは「かみさま!」などと柄にもないことを考えた。
 神様なんてことばは全然好きではないが、世界には我々にはどうしようもないところで粛々と進行している部分が確かにあって、それらをまとめて運命だとか神様だとか呼びたい気持ちは誰にだってわかるはずだ。
 厳密にいえば、今回の結果をもっとも直接的に左右したのは試験官の先生の脳内のインパルスの流れであった、と考えられるので「試験官の方々の脳で働いた物理法則さま!」と言う感じがより正確なのかもしれないが、そんなことをわざわざ考えるくらいなら「かみさま!」は手軽で素敵である。

 素敵だけど、しかし神様ってのが物理法則そのものである以上、彼は随分と非情で冷酷だ、ということも理解しておくべきだ。
 私が「合格発表」というやつは何度経験しても好きになれない。好きだ、という人を見かけたためしもない。
 昨日もちょうど、私が知っている受験番号が結果発表の紙には載っていなくて、ああ、あの人はいなくなってしまったんだな、と思っているところに当人が来た。その人は私に挨拶してから掲示の前にいって、なんだか長いことそれを見つめていた。それから、
「どうだった?」
と私にきいてきて、私はそれに答えた。向こうは、
「わたしは駄目だった……。じゃあね」
と言って、そして帰っていった。
 何かことばをかけることもできなくて、困った。神様はまるで容赦なくて、困った。

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 今週のジャンプの読み切りが話題騒然ですが、マガジンの読み切りも作者の顔が見たいようなアレな内容ですね。天然っぷりや破壊力ではそりゃ確かにかなりジャンプのアレよりは落ちますけど。

10月4日
 君は太田さんになれるか、をやってみました。
あなたの漢(おとこ)度は 49 % です
あなたは改造屋です。
うまく太田さんに出会えればあなたの腕を存分に振るえるでしょう。
まさに、五分五分。うまくいくもいかないも運次第。
 ……そんな人生いやだよう。

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 この間テレビ放送された『ピンポン』録ってあったので見ました。原作読んでないです。窪○さんは結構ちゃんと演技してて、ちょっと好感度アップ。
 なんにせよ「才能」というものは確かにあったりなかったりするわけで。望んだから手に入るものではないわけで。

 ヒーロー、か。そんなのもまあ、ありなんだろうなあ。

10月5日
 なりふり構ってられる心理状態じゃありません。天国的なまでに甘美な、無関心と優しさ。

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 モシュコフスキーのピアノ協奏曲という珍しいものをラジオで聴いた。モシュコフスキーってのは、普通はちょっと真面目にピアノを勉強してる人が練習曲――それもショパンの練習曲みたいな芸術作品的なものではなくて、本当に練習のための曲――を弾くくらいで、彼の曲は演奏会のレパートリーになってはいない。
 聴いた感想はといえば、まあなんだ、そこそこの曲ではあったんだけど。

 オケの曲を書くというのは、それはもう大変な苦労を伴う作業であって、わざわざそんな苦労をするのはそれなりに創作への強い欲求があってこそのことだ(へたくそなドラマのサントラを書き散らして金を儲ける、というような場合を除けば)。だから、そういう力のこもった作品をきちんと読み込んで練習していけば、多かれ少なかれ愛着は湧くし、作品からたくさんの思いを受け取ることになる。

 しかし、世の中にはやっぱり素晴らしい曲とそうでもない曲がある。それこそは「才能」のなせるわざなんだろうな。「才能」というのは、世界をどれだけ鮮烈に捉えられるか、ということと直結している気がする。考えに考え抜いた末の結果であれ、一瞬の直観であれ、世界のあり方や、自らの思考の流れを明確に把握して、それを出力することによって、より人間存在の限界へと近づけるのではないか。

 何という妄言だ。これが科学信奉者の書く文章か。

 しかし、物理法則とは次元の違う「真理」というものに考えを至らせたとき、単純に科学信奉の立場からは物事を語れないことは確実だろう。たとえば、スタニスワフ・レムが常に考えていた問題、「知性の本質とは何か?」ということにしたって、どうにもわけのわからない領域にある事柄だ。同じく、我々にとって「才能」というのは真理のひとつであるが、その本質というのは一体なんなのか。数十分で書く日記の文章で、それが解き明かされるわけもないのだった。

10月6日
 涼宮ハルヒ、続編は書かれるべきではなかったな。「成功させような」のセリフあたりはそれなりに良かったけど。

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 ひ、人がせっかく滅多にない女の子からのメール待ってるときに限ってどうしてこう「男女エッチ写真見放題!」とかいうスパムが送られてくるんだ! このガッカリな気分をどうしてくれるんだ! だいたい「男女エッチ写真」ってなんだよ! 「男男エッチ写真」も用意してあるってことか? 「うほっいい男! やらないか! 男男エッチ写真見放題!」っていうコースもあるんだな? え? そもそも「エッチ写真」ってことばが気にくわないんだよ! 「エロ画像」ってどうして素直に言えないんだ! しかもこの「見放題!」のあとに入ってる目覚まし時計の絵文字は何を意味してるんだよ! ちくしょー、イライラするぜー!

10月7日
 長い長い夏休みの間、一度も触れなかったのが間違いだった。何って、副科で取ってる管楽器です。今のソファの下に、ハードケースに入れたままで放置すること3月以上。後期のレッスンにそなえてさすがに少しは練習せねば、と今更考えたのです。さあ、ケースはだいぶ埃をかぶっているだろうな、拭いてやらなきゃ。

 で、引っぱり出したわけですよ。ソファの下から現れ出るその変容した姿……も、持ち手のところがカビでまっしろけ! 恐怖を覚えましたね。まさか中身もこんななのか……。


 ケースを開けたとたん、玉手箱であったかのように煙が立ちのぼった。い、いったいこれは……。息を殺して煙が晴れるのを待つ。薄くなる煙幕の向こうからおぼろげに見えてくる中身。そこには、『風の谷のナウシカ』で見たことのあるような光景が広がって――


 なんてことはさすがになかった。楽器本体は、ちょっといろいろと生えてたけど、概ね無事。借り物なんで、そこまで滅茶苦茶になってなくて胸をなで下ろした。

 しかし、紙のパックに入れたままだったリード10枚は、全部が繭みたいに糸で覆われて黒っぽくなってました。うえ。

10月8日
 最後には無に還るという現実を、まるで目の当たりにせずに来た私。身近には捉えられない関係だけど、そういった状況に直面することで自分が何を感じるのか。まだ想像もつかない。

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 おかしいくらいに月がまぶしい。膝に猫が乗ってきて、足が痺れる。早く冬が来ないかなあ、とこの時期には思う。寒い時期、朝方になると布団に猫がもぐりこんでくるのが楽しみ。

 ぼくは春には夏が好きで、夏には秋が好きで、秋には冬が好きで、冬には春が好きだ。そうやって先の季節を楽しみにしながらいつも過ごしている。次の季節への期待というのは、なぜか郷愁みたいな感覚を伴っている。

 でも、一番好きなのは夏。夏は、真っ最中でも好きでいられる。冬生まれだから冬が好きということばを見かけたけれど、そういうのってやっぱりあるのだろうか。確かにぼくは夏と呼んでも差し支えない時期の生まれだと思う。

 そういえば、好きになる相手って夏生まれの人ばかりだな。

10月9日
 うちの前に、今度ぼくが出る演奏会のチラシが貼っつけてある。きょう、門を出たところでそれを眺めていたおばあさんと鉢合わせした。「この写真、ずいぶん老けて見える」と言われた。3回か4回ぐらい言われた。一応、写真屋に行って撮って、結構カッコ良く写ってるつもりのやつだったので、がっくりきた。

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 JOJOの奇妙なスタンド占い、やってみました(無風地帯?さん経由。私も師、とお呼びしても構わないのでしょうか?)。
あなたのスタンドは「ストーン・フリー」です。

能力   :体を紐状にする。まとまると精密な動きとパワーを出す。
幸運の象徴:ペンダント・父親
不幸の象徴:恋人

総合運:超スゴイ
恋愛運:超スゴイ
金銭運:スゴイ
健康運:超スゴイ

総評:あなたは普段はごく平凡な性格をしています。しかし、なんらかの逆境が訪れることで、精神面・肉体面ともに劇的な成長をとげることができる運勢を持っています。逆境は成長のチャンスと思ってください。
なお現在、目上の人に自分の恥ずかしいシーンを見られてしまう卦が出ています。注意が必要です。

ラッキーワード:「ヤレヤレだわ・・・」
 ええと、恋愛運が超スゴくて恋人が不幸の象徴ということはですね、もう超不幸ってことですかね。

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 遅ればせながらこちらにも反応してみる。

 ちなみに、ト音記号は書き始めの渦巻きの位置が、ヘ音記号は右側のちょんちょんの位置が大切。それぞれ、渦巻きの中心がトの音の位置、ちょんちょんで挟まれた線がヘの音の位置を示すので、そういう名称になっているわけだ。で、ト音記号はG、ヘ音記号はFのアルファベットが変形してできた記号だ。ドイツ音名でトはG、ヘはFということから。
 楽譜を正確に書くのって結構難しいことで、広告とかで楽譜をデザインに使ってる場合、結構笑える間違いが散見される。以前あったダイキンのエアコンの広告は、大学の連中と爆笑しながら見た覚えがある。

 書き慣れない人にとっては、四分休符が一番形を整えるのに苦労するんじゃないだろうか。あれは下から上に向かって書くものだと知っている人は少ない。

10月10日
 祝・モラトリアム延長決定。真面目な話をすれば、モラトリアムのつもりなんてなくて、やりたいこと・まだ日本でやるべきことが残っているからこそ選んだ道なので、素直に嬉しい。大学に入った頃と違い、これは全然ゴールなんかじゃないこと、ここからどう歩いてゆく/ゆけるのかは自分次第なのだということがわかっている。足がかりがひとつ増えたことを喜んでいるだけ。

 失敗もあったけど結果が出たというのは、先に数学で院に受かっていたY氏にもらった力水のご加護もあったのかもね。

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 窪○さん、人がせっかくちょっとほめてあげたのに暴行してみたりすっかりアッチへ行ってみたり、芸風なんですかね、これって。

10月11日
 今年は栗の出来が良いとかで、田舎に帰っていた親が喜び勇んでたくさん拾ってきた。まるまると太った栗、70個くらい。栗というのは小さめの方がおいしいという話もあるのだが、なんにせよこの立派な体躯はなんとも感動的。さっそくことこと煮て、むいて食べる。ほっこりして、愛しい。やせ気味のやつの方が甘くておいしいというのは、どうやら事実。

 なんか、いかん。栗をむいて食べるだけで涙が出そうだ。完璧に泣きのツボだ。山の中の古い家で、「母さん」が栗の実を煮てる囲炉裏端の状況を思い浮かべただけで、もうだめだ。

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 ヴァイオリンの友人の家に合わせで行って栗を食わせてもらったのは、あれはもうちょうど一年前のことなのか。この一年、いろいろあったはずなのに、それでもやっぱり時の経つのは早いものだと感じる。秋は物思いの季節。外ではしとしと雨が降る。

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 ちなみに、クラナドの制作発表はどうやら2年前のこの日だったようだ。そう考えると、案外時が経つのは遅いのかもしれないなあ。

10月12日
 ティム・バートンの『シザー・ハンズ』を録画して観ました。なんて良くできた映画だ……。「雪はどこから降ってくるのか」という質問に対して語られるハサミ男の話は、どこをどうやって雪に結びつくのか長いことわからないまま。それでも、手がハサミという異常な設定だけに、どう展開するのか予想もつかずに引き込まれる。で、最後はなんだか普通に感動してしまいました。あんなおばかな話でなあ……。

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 犬が「お座り」と言われてする格好って、つまり後足を曲げてお尻を地面につけてる状態で、前足は伸びたままで上体を支えますやな? あれが犬の「座った」状態ってことは、猫もああいう格好をしているとき「座っている」と表現できるのだろう。
 そうすると、スフィンクスのような格好(前足は胸の下で丸めてることが多いけど)をしている猫は、どのように表せば良いのでしょうか。

10月13日
 大雨が降った。ずっと見ていた。風に巻かれる水煙、雲に溶けこみそうな遠くのビル。上がってから近くの川を見に行ったら、案の定ものすごく増水していた。上流には遊水池があって、そこまで行けばきっと満杯になった姿を見られたに違いない。実は遊水池に水がたまってるところは一回も見てないので、今この文章を書きながら見に行かなかったことを後悔している。

 激しい雨で綺麗に塵がとれたのか、夕方には近所の高台から富士山が見えた。

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 膝の猫が重すぎてどんどん足が痺れてきた。もうどかして寝よう。

10月14日
 昨日書こうと思って忘れていたのがコレについての感想。もともと「奇跡」ってのは和風の概念じゃないわけで、文化の欧米化とともに信じる割合が増えるってのは当たり前なのかもしれない。しかしこの時代にあってそういうものを信じられる神経というのは、素敵というか立派というか何というか。

 いや、私も3日の記述で「奇跡キター」とか書いてるわけではありますが。
 しかし、思いがけない好運に見舞われたときに「奇跡だ」なんて口走ることはあっても、実際には物理的な法則を破るようなできごとなんて起きてないことは誰だって理解できる……と思うんですが、違うんですかねえ。

 たとえば、不治と思われた病が「奇跡的」に治ることだって起こりますが、それは決して周りが神に祈ったことと因果関係を形成しないわけです。少なくともそこまで理解はした上でなお、不治の病におかされた人がいれば祈りたくなる、というのが健全なあり方のような気がするのですよ。

 信じてもないくせに祈ることが健全、というのは自分で言ってても気持ち悪い部分があります。そのあたりの折り合いのつけかたは本当に難しい。だけど、祈るという行為は、その効果(あるいは効果の無さ)とは無関係に価値があると思う。神やら奇跡やらなんて信じてなくたって、何かを願い、祈るという機能は人間の脳にしっかり根付いていて、使用することは可能なのです。

 願いが本当に力を持つような夢物語は好きなんですけどね。現実に奇跡を期待するのはどう考えたって変。

10月15日
 神舟5号の日。

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 最近つよく思っていることがある。人生切り売りするのはやめてほしい。いや、人のやることだからどうでもいいっちゃいいんだけど、あんまり見ていて気分のいいものではない。それに踊らされてへなちょこな物を絶賛してる人の群れとかも。(この文章は、複数の対象を取っています)

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